昭和50年05月29日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ、途中からできた神でなし。天地ははやることなし、はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
信心はせんでもおかげはやってあると言う事は、天地の御働き言うなら天地の御恩徳の中にお互いが生かされておると言う事だと思うです。だから誰でも神様の御世話にならん訳には行かん。天地金乃神様の御世話にならん訳にはいかん。しかも、生きて居るだけではない、生きても死んでもやはり天地の中より外にはないのですから。生きても死んでもやはり天地の御恩恵に浴しない訳にはいけん。
それを信心させて頂いて、そこんところの天地の御恩恵、天地の御働きを、それをつぶさに感じさせて貰いわからせてもらい、そのところから自と湧いてくるのが神恩奉謝の心であります。今朝から、控えの間に控えております、私の控えの向こうにお手洗いがございます、手洗い鉢です。それに昼は雑音がありますから聞きとれませんけどども、私が耳が遠いですけども、耳が遠くてもあそこえ、朝の三時半頃からあそこえジッと坐っとりますと、筧の水の音が致します。
もう何とも言えん深い深いなんと言うか、それこそ天地のリズムを聞くような思いが致しますそれで今日は、三人の子供達が前にこう並んで坐っとりますから、あんた達はあの筧の水の音が聞こえるかと、全然気が付かなかった今までは、と言うんです。それが朝の三時半から坐っておると、もう結局目をつぶっとりますから心は眠っとるわけです。だからそれこそ耳を澄ますとあの筧の水の音が聞こえる。
天地の親神様の言うならば、お心と言うか、又はお声と言うか、それをあのう聞き取るような思いで、その水の音をジッと耳を澄まして聞きよると、眠気はつかないよと言うて、三人の子供達に話したことでした。眠いのに出て来る、三時半から三十分間あそこに、四時の御祈念に私が出るまで、あそこへ坐っとらにゃいけませんからね。もう眠うしてこたえん、目をつぶると倒れるとも、間には居ると言うふうに、まあ眠いんですよね、若い者ですから。
だから今日、私は初めてその事を申しましたが、三人共ですね、それを聞きとっとらんですね。私はもう朝あそこであのういうならば筧の水の音を聞きながら、瞑想に耽れる三十分が一番素晴らしいんです。深いいわゆる、瞑想に耽るわけです。その深い天地の親神様のお心と言うか、そう言うお働きをです、感じ取らせて頂く所に、いやが上にも有難しと言うものを感じますから、有難い神恩に対する報謝の心、それに報い奉らなければ居られん心が生まれて来るのです。
私は神恩報謝の心、天地の御恩徳を悟らしてもらい判らして貰うて、その御恩徳に応え奉るその心が、天地日月の心だと思うです。天地日月の心、それを具体的に言うと、天の心とはもう与えて与えて止まない美しの心、無条件それこそ信心はなくてもおかげはやってあると言う様に、もうあれは信心せんけんおかげはやらんと言うのでなしに、それこそ降るようにしかも無条件に、与えに与えられてあるのが天の心。
地の心と言うのは、それを黙って受けて受けて受けぬく心、どんな事があってもジッと受けて受けて受けぬいて行く心。そこには天地の声を聞き、天地のリズムに乗らせて頂く心と言うものがあるからリズムに乗って行くのですから。生まれて来る心の状態はただ何とはなしに有難、勿体ないなあ、筧の水の音を聞いても深い深い神様の心を感じさせて貰う事が出来るのです。
昨日は、安藤さんのお宅の宅祭りです。去年あちら神様をお祀りし、霊神様を改式のおかげを頂かれまして奉斉ができました。それで丁度去年の、昨日がその日に当とりましたから、五月二十八日を安東の家の宅祭りとして、おかげを受けようと言う事で、宅祭りが本当に賑やかな、もう宅祭りと言うよりも、支部の御大祭と言う感じでしたね。何故かと言うと、それこそあの岩光と言う村は大変村立ちがよい村で、私しやあの安東さん達があちらえ移られて、初めてあんな村があっただろうかと言う様に。
初めて知り初めて行った所でございますけれども、大変こっぽらぁっとした村です。大変村立ちが良い、言うなら神様でん仏様でん言わんで、もう幸せにやっとると言った感じの村なんです。ところが、あのう安東さんの住まわれとるお家がです、幽霊屋敷と人が言う様になって、まぁあそこの前は人が日暮れにでもなると通りてがないと言う事になった。それこそ荒れ放題に荒れて、また何人その家に変わられても十日と保てる人がなかった、いろんな怪異な事があるわけですね。
家は新しい、勿論、大家さんなんかは、建てられてからもう間もなくその家を捨てる様にして熊本の方へ移られたんです。それをまぁ家を探しておられて、探し当てられたのが、その家であった。それでそれを借りる様になったら、そう言う噂の家であった。熊本の方までわざわざ大家さんに会いにいかれた。ところがあの事を知って来られましたか、と言うのです。あの事と言うのは、あの家にはこう言う、あのまぁ因縁の深い家であって、こうですよ。知ってまいりました。
私共は金光様の信心をさせて貰うから、先生がそれを借れと言われるから、それを承知の前で借りて頂くならこんな有難い事はないですからどうぞ借りて下さい、とこう言う訳なんです。そしてまぁ立派なお家だけでなくて、車庫まで付いてます、ほらぁもう部屋も幾つもあって、ただ親子三人じゃとても勿体ない様な広いお家だった。だからその家を借りられる事になって、おかげを頂かれたから、もう今に村内の人達がもう出て行くじゃろうと思うて見ておられたのが。
逃げられる所か段々段々賑やかになって行く訳です。お神様を奉斉しとられますから、近所の方達がそのう今はちょっと買い物に出ろうと思うてね、自分の留守にみえるから、家を開けられないと言う位に、村内の人達が集まって来る様になったんです。そしていろんな難儀な問題を持って来るのです。そんならば合楽にお参りなさいと言うてお導きをして見えられる。又は遠いからと言うてお参りが出来ないと、なら此処の神様を拝ましてくれと言うて、もう近頃は野菜なんか買うた事はないといわれる。
村ですからねたまにはね、お米まで持って来る人がある。もう勿体ない話ですと言うわけです。昨日も岩光の方達だけが先に玉串を上げましたが、二十五名上げましたね。一人が言わばおかげを頂くためにです、一人がおかげを頂くと千人も万人もの者がおかげを頂くようになるから、手本になる様な信心をせよとこう言われる。村の内の一番鬼門と言われるその家がです、もう本当にその家の前は通ろうごとないと言う家の前がです、賑やかになって来たんです。
そして有難い事になって来たんです。そして今まで言われておった様な事は、もう昔の噂の様になったんです。それは今でも大家さんが、家賃を取りに見えられれてもですね、一寸上がって下さいお茶一服差し上げますからと言うても、手を振ってこうこうしてから帰られるそうですよ。もう家には上がらんと言うてから(笑)いいえと言うてから、遠慮して帰られるそうです。まだその位に自分ではコリゴリして居られるお家なんです。それが生きて来た。それが人が助かる場になって来た。
こちらからお参りした人を合わせますと、やっぱり七十名以上だったろうと、御直会なんかは、もうお座敷だけでは出けませんから、もうみんな、どの部屋も使わしてもらわんならんと言う程しでございました。本当にもう御神意のまにまに動くと言う事は、そう言うそこには、御神意があっての事ですから、岩光地区に次々とそう言う有難い信心が、わかって行く人がある。
おばあさんなんかで、此処までお参りして来んけども、今日は合楽の先生が見えるげなと言うて、もう早うから来てから待ち望んどられる方達もあった、と言う様に、合楽の金光様の新たかな事を、岩光地区の方へそう言う比礼が輝きわたって、行って居るっと言うこと。私は天地は流行る事もなし、流行る事もなければ終わることもなしと言う事ね。言うなら流行り神様と言う事を申しますが、そう言う神ではない昔からある神ぞ、流行る事がないと言う事は、いつも同じだと言う事であります。
ですからこう言う心の状態、もう例えそれが幽霊屋敷であろうがです、親先生がそこに住め、まぁそれにはいろんないきさつもありました。あんた達が気色の悪かなら、私が一時ばっかり泊まりに行ってやるから借りなさい。助かってないみ霊様があるならば、それを言うならば助けて行く位な気持ちで、その家に入りなさい、と言うておかげを頂かれましたがです。神様の御恩徳をわからして貰うてです、おかげを頂き留める心と言うのは、何時も変わらぬ心だと思います。
だから何時も変わらぬおかげが頂き続けられる、その内容として天地日月の心になる事が肝要だと言うのでございます。なら天地日月の心になる事肝要と言う事は、どう言う事かと言うと、昨日は私の方にこんな事がございました。孫の誕生日でございました。まあ言うならば此処の三代を次ぐ事になるわけです。三代目ですそして岩光の方へ参ります、一寸時間を一時間ばかり、家族中の者が集まってパーティの様な事をやりましたから、お茶を頂いたり、おビールを頂いたりして過さして頂いたんですけども。
そこでです、妹が申しますのに、今日はそればってん此処だから良かったけれども、不思議な事があることはあるもんじゃあると言うわけですね。ある所から名前を恵城と申しますが、恵む城と書いてあります。このお名前を頂く時からです、恵まれるためにはね、城と言う字は土偏に成ると書いてあります。だから土の心を頂いて行けば、どの様な事であってもだまって受けて受けて受けぬくといった様な心の状態になればです、その恵が成る。神様の恵みを受けとめる事がでけると言う御理解を頂きました。
名前をだから恵む城と書いて恵城と呼ぶ訳ですね。その恵城ちゃんのお誕生おめでとうと言うて、祝電が参りましたのでございますけれども、開けて見るとなんとそれが弔電であった。お悔やみの電報であった。しかし電報局でも大変な間違いをするもんですね。それがどうでしょう、普通の家だったらこげな縁起でもない、それこそ三代目を継がにゃならん、言うならば長男の誕生日だと言うのに、初めての誕生ですからね。
丁度一年目ですから、に弔電が来るなんてこげな縁起の悪い事はないと言うて、まあ言うなら、電報局に文句の一つも言いたい所じゃないでしょうか。だからなら私としても、なら心にかからない訳ではない、それでその事を神様にお礼お届けをさして頂いとりましたら、そのうよく誕生日の時にはいろんなね、ソロバンとか扇子とかいろんな物を置いて、どれを取るかそしてそれを、その子の将来を暗示出来ると言う訳ですね。
所がそのいわゆるそのケーキを切って、あのお茶を頂こうと言うごとなった時に、恵城がゴソゴソ這って来てですね、そのケーキを掴んで自分が食べんならんとこう言う訳です。それでこうして抱くと癇癪をまわしますから、兎に角今日はこの人が良かごとさせてから、わが良かもんば取らせんのち言うてからしたら。もうそのケーキのあれがベタベタしとりましょう、それを手にこうつけて取るとは何かと言うと、イチゴがその上に一つ一つ載っているです。そのイチゴをみな食べてしまうんです。
もう二つも三つも、四つも口に押し込んでから、私はほんとそればってん、あの状態だけはですね、ただ事じゃないと思いましたよ。今までかってあんな事したことがないのですね。どうするかと思いましたら、イチゴを掴んでは口に入れ、イチゴを掴んでは口に入れ外んとは食べんとです。たまがった。三つも四つも口の中に押し込んで食べてしまいました。その事を頂くですよね。
だからどう言う様な事かと言うとです。ならお道の先生になるものが、御本部で一番初めに神様に誓わなければならない事は、終生一生涯をです、神様に捧げると言う事を誓います。言うなら此処の三代を継がなければならない言うなら三代目ですから、言うなら一期(イチゴ)と言う事は、一生と言う事であります。もう一年の誕生の時にもう、もう亡くなったも同じの事だと言う事なんです、弔電はね。生涯その心持ちでおかげを頂かなければ、いうならば地の心にはなり得ないと言う事なんです。
土の心にはなり得ないと言うこと。死んだと思うて欲を放し、死んだと思うて大地の心を心として受けて行く様な心の状態をつくってくれよと言う、神様の、言うならば、願いの言葉だと思います。だから私は恐らく一生涯です、その昨日のことはまぁ親から子に伝えられることでしょう。そして一生私の誕生の時に、こうだったげなというでしょう。そして自分の心に土の心が欠けておる時には、あの時に自分は欲を放して、死んだと思うて欲を放してと言う御用が出来る事になるでしょう。
そう言う微妙な神様の働きを受けての、昨日であったと言う事でございます。だから電報局にあのうそのう因縁でもつけに行きたいごとある、普通で言うならところでしょう。けれども、天地のリズムを頂いておりますと、それがそう言う有難い事になって来るのであります。神の声なんです。神の心がその様に現れておるのです。そう言う心になれば、もう流行る事もなからねばです、流行る事もなければまた終わりもないと言う程しの、おかげが頂かれるのがお道の信心なんです。
神様に任せると言う心は、そう言う心に通じるのです。自分の我情我欲と言うものを出さずに、例えそれが幽霊屋敷であっても、親先生が行けと言われるからハイと言うと言う事です。私はあんなものを書いて上げた覚えはないのですけれども、色紙にひらがなではいと書いて上げているわけです安東さんに。それを玄関口の入り口の所へ丸額に入れてから、こんな事書いた覚えはないと思うんですけど、やっぱり書いて上げとるわけです。平仮名ではいと言う、はいと言う心その心が即ち素直な心。
私がよく申します様に、此処にもし私が、家蔵財産と言うものを持っておるならば、その家蔵財産の全てが、私のはいと言う心から生まれたんだと思うです。どこにはいかと言うと、神様の仰せ通りに仕まつったと言う事です。神様が右と仰ればはい、左と仰ればはいと言うて来た。そこから、私が持っておる、もし家蔵財産があるとするならば、それは私のはいから生まれたものです。その心にはいうならば流行る事もなければ終わると言う事もない程しの、いつも神様の御恵みと言うものは。
それこそ天の心限りなく私共の上に降る様に、与えに与えて下さってある。そのおかげを頂きとめる心と言う事になります。だからその心の状態を、そんならばどう言う事になるかと言うとです、まあ言うならばハイと言う心をもう死んだ心です。自分の心を空しうした心です。死んだ心と言うことは、自分の我情を出さない我欲を出さない、自分を空しうすると言う事は、言うならば、もう死んだと思うて欲を放して言う事と同じなのです。皆さんが親先生任せになられると言う事はです。
その様に素晴らしい神様の限りないおかげを、頂き止めて行く事の出来れる心の状態なのです。それが、自分がお伺いした事だけではない、生活の全面に渡って、全ての事柄がハイの一字でおかげを頂いて参ります様な、おかげを頂いていく為に、私共がそう言う純粋な心にならせて頂く事の為に、天地日月の心になること肝要なりと仰せられる、天地日月の心を愈々求めて行かねばならんと言う事になるのです。天地日月の心即それは信、それは私自身を空しうした姿なのです。
そこからなら神様の願いもまた成就して来る。岩光地区に神様の願いが成就して来ておる。安東さんの言うならばハイと言う心にそう言う働きが生まれて来た。昨日安東さんところで頂きました御理解の中にです、人にお礼を言うて貰えれると言う事が、これは人間としての道なのです。人にお礼を言うて貰えれる程しの言うならば、真の心親切の心を尽くして行けと言うのです。人からお礼を言われる心、次には霊様から先祖の御霊様からお礼を言われる心。
昨日私はあちらで霊様の前ので、御挨拶させて頂きましたら、或る霊様が安東さんが、夫婦そこに坐っとられるそちらの方に向かってから、深々と頭を下げられるところを頂いたです。助かってなかった霊がです、安東家の霊様達がです、こうして真の信心をしてくれる事によってです、またその家にまつわっておった所の、それこそまあ言うならば幽霊のその実体です。その霊様です達がです、おかげで助かる事が出来ましたと言う、言うならばお礼を言うて貰えれると言う事は。
先祖の霊が喜ぶと言う事は、先祖の霊と言う事は家の根であります。家の根本なんです。ですから、霊が生々として喜んで遺族の者達にお霊を言う心をもって、霊の働きを現す事になるのです。根が生々として参りますから、家が繁昌して来るのです。言うなら枝葉がしこって来るです。花が咲いて実が稔る様なおかげにまでなって来るです。まず私は霊様が助かる為には、まず自分自身の心が助かる。自分で自分の心が拝みたい様な心。そう言う心でもって人に接するならば、人がお礼を言わない筈がない。
その何十人の人達がです、安東さんがこの村に来て頂いたおかげで、安東さんのおかげでと言うて喜んでおられる。次にはです、神様からお礼を言うて貰えれる心なんですね、教祖生神金光大神様、天地金乃神様がです、此方金光大神あって神が世に出たのであると仰せられる。神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神であると言われる様に、天地の親神様が金光大神を恩人とまで讃えておられる。
神が一礼申すとも言うておられる。あちらえ参りますと、私しが大きく信楽、信心の信と楽と書いたのが霊様のこちらの方へ、額に入れて揚げてあります。これはね、信する者のおかげ、信ずる者の楽、どう言う不安、心配の時であっても、親先生が心配はいらん、親先生にお願いしたからと心が楽になる。取り越し苦労をせんで済むその心が信楽なんです。これは信心を頂かなければ頂けない心。
この問題はこれから先はどうなるじゃろうかと、不安で心配で取り越し苦労ばっかりしとったのが、一度お取次を頂く事によって、もう親先生にお取次を願ったのだから、後は神様にお任せをすると言うその心が、信楽なのです。屋敷のこちらの端には、短冊が掛っとります。それには和楽と書いております。和の楽。あちらの安東さん達の言わば居室になっておる又寝室になっておる所には、私が和と言う字を大きく書いておる、その和と言う字の禾と口が心もち離れておる。
それを頂いた時の御理解にです、この禾へんと口の字が引っ付かなければ本当の和にはならないと言う。離ればなれになっておったんでは、和ではないと言う御理解付きの大きな和と言う字が禾扁と口が普通のいうなら和では離れすぎておると言う感じ。以前は非常に夫婦の仲が悪かったんですあそこは。だからそう言う様な御神意もあったかと思うです。御主人が信心がないもんですから、それこそもう信心をもうそれこそもう、もう顔でもなんでもはれあがるよる程叩かれなさる様な事があったんです。
当時福岡から椛目、椛目と参って来よった。たたかれても蹴られても参り続けられた。そして当の御主人が、大変な難渋な病気をされる事になって、自分が御世話する様になって、おかげ頂いて助かられた。それから、それこそ奥さんより筋の良いと言うか、熱心な信心がお出来になる様になったわけです。言うならば信楽言うならんば和楽、そこまでは極楽ですよね。
信心をさしてもらう神様を信ずるところから、お取次の働きを信ずるところから、どう言う不安焦燥の問題が例え起こっても、どうなるかと言う問題が起こっても、お取次を頂いての事であるからと、安心だと言う楽が生まれてくる和。家庭の中が円満でその円満な楽と言う事。そう言う信楽、和楽を合したところに極楽がある。その極楽の向こうに、又合楽があるという事になります。
その合楽と言うのは神様が一礼申す、神様が例えばここに久富繁雄という人を見て、神様がもうお礼を言うて下さる心、それが合楽なのです。神様と人間氏子とが一緒に喜び合えれると言うそれが合楽なのです。ですから、合楽の世界を願い求めての信心でならなければいけんのです。自分だけが極楽であれば良いと言うことでなくて、神様も助かって下さると言う所に、合楽の世界があるのです。
そう言ういわばおかげを頂くために、その内容であるところの天地日月の心に、いよいよならして頂く精進をさして頂きまして、それこそ私の孫の名前ではないですけれども、こちらが一切どの様な問題でも合掌して受けて受けて受けぬくと言う、土の様な心にならして頂くところにです恵みが成るのです。恵み神様の恵みを受け止める事が出来るのです。成就するのです。すべての事が叶うて来るのです。人間の幸せの条件が足ろうて来るのです。それにはいうならば、自分を空しうしなければならない。
誕生日に弔電が来た本当言うなら、もうあの時点で自分と言うものは空しうなっとったんだ、亡くなっとったんだ、だから自分の生涯と言うものは、お道の人の助かる為にかけるんだと。例えば私共の三代がそう言う心の状態を起こす事になった時に、いよいよ言わば親の代より子の代、この代より孫の代と言う繁盛のおかげになって行く事でしょう。そう言う事をですリアルに、昨日の誕生日に神様は見せて下さった様に思うのです。信心はせんでもおかげはやってある。
もうそれこそ限りない降る様なおかげを、信心があろうがなかろうが、神様は下さってあるのですけれども信心がない、言うならば流行ったり流行らなかったりと言った様な心、有難か時にはえらい有難いけれども、有難くなくなったらもう神様の事に不平不足を言う様な心では駄目なのです。どう言う様な場合であっても、それを受けて受けて受けぬかせて頂く心を、私は今日は空しい自分を空しうする心を聞いて頂いた。
空しうすると言う事は、言うなればハイと言う事だとも聞いて頂いた。自分の思いはいろいろにあるけれども、親先生が右と仰るから、左と仰るから右にきめた。左と決めたと言うてその、自分と言うものを空しうしとる時です。そう言う稽古を限りなく繰り返さして頂いている内に、神様の心であるところの言うなら、天地日月の心もまた備わって来ると言う事になるのです。
どうぞ。